春もよう
きみの面差し
偲ぶれば
その道筋に
咲く可憐草
桜舞う、春盛りのなか
我が道筋を守るように、そっと咲いている可憐な花を見つけました。
春もよう
きみの面差し
偲ぶれば
その道筋に
咲く可憐草
桜舞う、春盛りのなか
我が道筋を守るように、そっと咲いている可憐な花を見つけました。
たちわかれ
いなばの山の嶺におふる
まつとしきかば
今かへりこむ
小倉百人一首、第十六番の歌です。
作は、中納言行平(818~893)
古今集 巻8・別離に載っています。
この歌を紙に書いて、皿の下などに置いておくといなくなった、ねこなどが帰ってくるといった、おまじないに使われる歌で、別離の歌です。
別れの切なさを詠んだ歌です。
作者の中納言行平こと在原行平が、都を離れ、遠い因幡国へ赴任するとき、多くの人が悲しみました。
行平は、人々へ別れの挨拶としてこの歌を詠んだと言われています。
お別れですが、因幡の稲羽山に生える松のように私の帰りを”待つ”と聞いたなら、すぐに戻ってまいりましょう。
この歌の作者は、中納言行平こと在原行平(ありわらのゆきひら)です。
平城天皇が失脚すると、行平は臣籍に下り、在原姓を賜って生きていくことになります。
行平は、中央の要職や地方の国守などを歴任し民政に手腕を発揮しました。
斉衡2年(855年)に因幡守に任じられた春に因幡国に赴任しました。
数年後、帰京した行平は、公卿となり国政に携わることになります。
時の関白、藤原基経の権勢に抵抗した、硬骨の政治家だったと言われています。
あしびきの
やまどりの尾のしだりおの
ながながし夜を
ひとりかもねん
小倉百人一首、第三番の歌です。
作は、柿本人麻呂(生年不詳)
拾遺集 巻13・恋3に載っています。
歌に登場する山鳥とは、山に住むキジのことです。
この鳥の雄は、縞模様の長い尾羽を持つ特徴があります。
山鳥は、昼間には雄と雌が一緒に過ごしますが、夜になると離れて寝るという伝承がありました。
この歌は、恋人と別れて過ごすさみしさを詠んだものです。
離れて過ごす夜は、山鳥の夫婦のようです。
そして、山鳥の尾のように長く長く感じることです。
この歌の作者は、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ) です。
歴史上最古にして最高の歌人とされています。
平安時代には、和歌の神として神格化されていました。
わすれじの
ゆくすえまではかたければ
けふをかぎりの命ともがな
小倉百人一首、第五十四番の歌です。
作は、儀同三司母(生年不詳~996)
新古今集 巻13・恋3に載っています。
この歌は、妻が夫にむけて切々と歌った恋の歌です。
一夫多妻であった当時は、夫婦は別々に住み夫が妻のもとに通う生活でした。
夫が自分のもとへ通ってくるのを妻は、ただ待つしかなかったのです。
そのような生活の中で、
夫が自分を忘れないと言ってくれている、この幸せな時にいっそ死んでしまえたらと詠んでいる歌です。
この歌の作者は、儀同三司母(ぎどうさんしのはは) です。
名は、貴子 夫は、関白家の藤原道隆です。
やがて貴子は、伊周・隆家・定子など3男4女をもうけます。
定子は、後の一条天皇の中宮になり、清少納言が仕えた主人です。
道隆は摂政になり、伊周は儀同三司という高い位につきます。
この、位名が、貴子の呼び名になります。
人もおし人もうらめし
あぢきなく
よをおもふゆへに
物思ふ身は
小倉百人一首、第九十九番の歌です。
作は、後鳥羽院(1180~1239) 続後撰集 巻17・雑中に載っています。
この歌は、後鳥羽院が、時の鎌倉幕府に対し起こした承久の乱に敗北して、隠岐の島に流される9年前に詠んだ歌です。
鎌倉幕府による、朝廷政権への圧力、そして貴族社会の衰退など、後鳥羽院の現状への不満が伺える歌です。
人がいとおしく、また恨めしくも思われる
つまらない世の中だ
しかし
いちばんつまらないのは、こうして世をはかなんで、思い悩む自分自身であろう
承久の乱を起こしました。
乱は、幕府側の勝利に終わり、敗北した後鳥羽院は隠岐に流されました。
隠岐の島に流された、後鳥羽院は、18年後にむなしくその地で没しました。
我いほは
都のたつみしかぞすむ
よをうぢ山と人はいふなり
小倉百人一首、第八番の歌です。
に載っています。
私の庵は都の東南にあり、鹿も住んでいるようなのどかな山里、宇治山にあります。
この里で、私は心静かに暮らしているのです。
しかし、世間の人たちは、私が世を憂いて宇治山に住んでいると言っているそうです。
宇治山に居た僧としか、経歴は伝わっていません。
六歌仙とは、平安時代初期に活動した、和歌の名手、6人を選んだものです。
在原業平、遷昭僧正、喜撰法師、大友黒主、文屋康秀、小野小町のことを言います。
宇治山は、宇治市の東部にある喜撰ヶ岳という山のことです。
喜撰ヶ岳に住んでいた法師で、喜撰法師なのでしょう。(もしかしたら、その逆かもしれません。。が)
とかく、世間のひとは、自分たちと同じように暮らしていない人がいると、何か訳があるのではないかと囁きあうようです。
人里離れた場所で、心静かに暮らしている、作者の心根が伺える歌です。
百敷やふるきのきばの
しのぶにも
なほあまりある
むかし成りけり
小倉百人一首、第百番の歌です。
作は、順徳院(1197~1242) 続後撰集 巻18・雑下に載っています。
この歌は、もう過ぎ去ってしまった、華やかであった時代への憧れと変わってしまった時代を嘆いて詠んだ歌です。
しのぶ草よ
偲んでも偲びつくせぬ、過ぎ去ってしまった華やかな昔の日々はもう夢となってしまったのだ。
この歌の作者は、第84代天皇 順徳院です。
承久の乱を起こしました。
乱は、幕府側の勝利に終わり、敗北した院は
華やかだった、王朝時代をかえりみて詠まれた、とても悲しい歌のようです。
王朝時代が終わり武家の時代になった、寂しさ、悲しさが偲ばれます。